2018
07/08
20:57
道路と鉄路の開拓
Category : 北海道ドール紀行

2018/7/3 愛山~中愛別 4620D (第5石狩川橋梁)
こう書くと鉄道写真みたく感じるものです。
北海道に梅雨が無いというのはすっかり昔の話になってしまったようです。
この写真を見ての通り、石狩川が今回の台風の影響でものすごく増水していました。
列車が走れるくらいまで水位が下がったので運行しているのであって、その前までずっと運休でした。

これは、この橋を渡っている時に撮った石狩川の写真。
同じ場所、同じ向きで撮っていますが水の感じが全く違うものです。


北海道道140号 愛別当麻旭川線
北海道道296号 比布愛別停車場線共有区間:愛別橋
同じ場所から撮った写真ですが、全く違いますね。

第5石狩川橋梁は、石北本線の特急列車の写真を探すと時々登場する場所です。

タイミングが合えば、鉄橋からカーブしてくる列車を撮ることができます。


美鈴:道の先に、何があるのか。
今回の記事は、愛別町と上川町から。
追記に続きます。
続きを読むからどうぞ。

美鈴が立っていたのは北海道道640号 中愛別上川線。
ヘキサには3640とありますが、最初の3は管理番号です。
田舎の道路だと3とか5とかが付いています。(北海道の場合は)

愛別側から行くと、「国道分岐点」というバス停があります。

まっすぐ行くと国道39号。 今回は左折。
旭川紋別自動車道が開通するまでは、国道39号の抜け道として通行量もありましたが現在はひっそりとしています。


起点からの風景。 この先1km位で通行止めです。

この踏切の名前は、「上川中央線道路」
その名前の通り、かつては大事な道路でした。
明治40年、北海道の「仮定県道中央線」として指定されたこの道路。
なんと道南の江差からスタートで森・長万部・喜茂別・札幌・旭川・北見峠・網走までという遥かなるもの。
上川は旭川~北見峠間に属しており、そこから上川が付けられたのでしょう。
明治時代~大正時代の名残がそのまま今まで使われ続けています。 踏切の名前はまず変更されないという事情もあります。
踏切の名前から、歴史が見えて来ることもあります。


この道路は、明治時代に囚人たちによって拓かれたいわゆる「囚人道路」。
ここに限らず、今でも沿線にはいくつもの記念碑・慰霊碑が建てられております。

中央道路は、札幌から網走を結んだ道路。
北見道路は、そのうち旭川から網走までの区間を指します。
旭川から北見峠までは、樺戸・空知集治監が、網走から北見峠までが釧路集治監網走分監の囚人が担当。
228kmもの道路を、わずか1年で完成させるという無謀な計画。
東京で例えると難しいですが、東京~長野間を1年で作れと考えるとその無謀さが分かるかもしれません。


明治政府のこの考えの基、囚人たちが酷使・亡くなっていったのです。
全てはロシアの南下政策に対抗するため。

千咲:北海道の暗い部分だけど、知ってほしいのよね。

旭川~網走間の道路も、鉄道も、完成までには多くの強制的な労働があったこと。


上川町越路地区にあった、官設駅逓。
駅逓(えきてい)とは、駅舎と人馬を備え、宿泊と運送の便を図るために設置され、開拓期の北海道では重要な役割を果たしていました。
北見道路では、12号まで設置され越路が10号です。

増水が収まってきた第5石狩川橋梁。 (7/7撮影)
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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