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冬音

Author:冬音
北海道でドール撮影をしています。
北海道は季節感が本州と多少異なりますが、それも個性ということで。
北海道地図があると、より楽しめるかと思います。

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かたちあるもの (留萌本線・藤山駅)

Category : 北海道の鉄道
藤山駅01
留萌本線・藤山(ふじやま)駅
この駅も、1日平均乗車人数1人以下の駅です。
左右対称な駅舎が印象的です。 しかし。。。

追記に続きます。
続きを読むからどうぞ。
藤山駅02
こう見ると、なにか違和感が見えてきませんか?




藤山駅03
駅舎右側。

藤山駅04
駅舎左側。
明らかに壁が違いますね。
そしてコンクリートの土台。





藤山駅05
かつて、藤山駅にも有人駅だった時代(1910~)がありました。
しかし、時は経ち1984(昭和56)年無人化。 その時に駅舎の左半分、事務室部分が丸々解体されました。

藤山駅08
藤山駅の駅名標。
隣の大和田駅や幌糠駅は完全に解体され、貨車駅舎になっています。

藤山駅07
あい:なぜ、藤山だけは半分だけでも残ったのでしょう?





藤山駅09
その答えを知るために、藤山の成り立ちから見ていきましょう。
藤山駅前には、2つの碑が建っています。

藤山駅10
往年 この地はうっそうと生い茂る原始林におおわれた未開の地であった。
先人が開拓に鍬を入れて以来95年 樹林を切り根を抜き水を導き数々の苦難に耐えて今日の肥沃の美田を見るに至った。
今ここに先人の労苦を偲び21世紀へと翔く心の礎とするものである
平成2年9月2日 留萌市長 五十嵐悦郎
留萌市立藤山小学校開校90周年記念
藤山町開基95年記念協賛会


藤山駅11
藤山開拓之碑  北海道知事 町村金吾 書

藤山駅12
藤山町開基を讃える
この地は明治二十九年藤山要吉翁の農場開設に創まり昭和十三年開放せらる
当初入植せるは富山石川両縣出身の十数戸なり。 畄萠(留萌)川を溯り盧舎(=小屋)を結び千幸万苦よく一円融合して開拓の斧を振う
今や林沢変じて美田となり耕鋤の業いよいよ旺んなり
ここに先人の偉業を讃え開拓碑を建立す
昭和四十年八月八日 藤山町開基七十周年記念  町民一同

藤山駅06
あい:なるほど! 藤山要吉さんが「藤山」の由来なのね!

藤山駅13
あい:地名になるくらいだから、要吉さんはすごい人だったのでしょうね。


藤山駅14
(ホーム側は板張りがほぼそのまま残っています)


[小樽を代表する商人、藤山要吉]
藤山要吉(1851~1938)は嘉永4(1851)年、古谷家の二男として現在の秋田県に生まれました。
古谷家は佐竹藩の御用達油問屋で、苗字帯刀が許されるくらい格式の高い家でした。
16歳の時、商用で出張した弘前から、二男の気安さからか、津軽海峡を越え蝦夷地に渡り、それから5年間松前藩福山の回船問屋で修業してきました。
要吉の転機は明治5(1872)年、「北海道の開発は道都札幌から展開していくはず。ならば松前や函館より札幌の海の玄関口である小樽で勝負だ」と考え小樽へ移住。
この頃に既に、小樽の発展を予期していました。

回船問屋で働き始めると、すぐに藤山重蔵に見込まれ、養子入り。この時苗字が古谷から藤山に。
松前で回船問屋の奉公をして蝦夷地商法のコツを学んだ要吉、翌年(1873)重蔵が亡くなり回船問屋を継ぐと「これからは他人の舟ではなく自前の船で商売をやろう」と藤山海運を設立。 小型の和船2隻から海運業に進出しました。

この時代は、北海道最初の鉄道である手宮(小樽市)から札幌駅・岩見沢駅経由三笠・幌内までの官営幌内鉄道が開通し(1880)、生活物資・開拓民を運ぶ海上運輸の必要性が高まっていく時期でした。 時代の流れに乗り会社は急成長。 
要吉はさらに、小樽から稚内を結ぶ航路「天塩漕運会社(1887)」を設立。1889年には「天塩北見運輸会社」を設立。
この頃には、北は樺太・ウラジオストック、南は神戸・下関にまで航路を広げ日ロ両国間の貿易品輸送と旅客の往来に大いに活躍していました。
和船に始まり洋式帆船へ、次は動力を使う西洋の新型汽船と藤山海運の規模は時代とともに次々と拡大し続け、明治27(1894)年には藤山海運から藤山汽船部へと名前も変わりました。

だが、順風満帆に見えた藤山要吉にも危機が訪れます。
日本郵船が北海道の航路にも積極的に進出するようになると、親方日の丸の資本力にはさずがに勝てず、さらに東京~青森(=函館港)や岩見沢~室蘭を結ぶ鉄道(=室蘭港)が開通。 小樽港の競争相手が増えていきました。
この頃、天候不順などの自然条件も重なり、持ち船の沈没にも見舞われたりして、天塩北見運輸会社は明治30(1897)年に解散する羽目に。
しかし、冬になると欠航しがちだった日本郵船より堅実かつ信頼されていた藤山の船。地道に船の運航を続けている内に、ついに政府から小樽-天塩線、小樽-函館線、函館-瀬棚線を開設し運営するよう要請されるまでになりました。

明治37(1904)年3月27日の日露戦争における旅順港閉塞作戦が、藤山の状況を変えました。
要は、民間の大型船を使ってロシア艦を旅順港に閉じ込め、その間に日本の艦隊が砲撃してロシア艦を沈めようというものです。(3回行いいずれも失敗しました)
一応、戦争には勝利したという形になり戦後藤山汽船部にも膨大な政府補償金が入りました。
そのお陰で、明治40年代には10隻以上の汽船を所有していました。

藤山要吉は、海運業だけではなく倉庫業、炭鉱業、鐵工所、銀行、保険など幅広い事業を手掛けていました。
漁場漁業にも手を掛け、稚内から知床、樺太まで鰊や鮭、鱒の漁場を50箇所以上所有。漁獲高は8000トンに達しました。
その原動力となった漁業の機械化の普及も、藤山が最初に取り入れたものでした。

その一環で農場も手掛けました。
留萌原野の未開地300町歩に、北陸地方の小作人83戸を迎えて開拓。
それが現在の藤山という地区です。駅や鉄道用地も全て要吉が提供しました。 
かつては、藤山炭山(1907~1938)もこの地区にありました。

(第十集 ほっかいどう百年物語より)

藤山駅15
真凛:なんとなく分かったような分からないような・・・ ねえ。
(駅に飾ってあった人形と)

小樽商人が地主となって開墾された土地は北海道に少なくないのですが、現在も地名に残っているとなると少ないです。
小林多喜二の小説「不在地主」のように、そこには住んでいないが高額な小作料だけ徴収するというケースは少なくなかったです。

「おお、ずいぶんと精を出してるね。どれ、そこの鍬を取ってくれ。わしも一緒に汗をかこうかな」
「そんな、もったいねえことです。 藤山様のおかげで、わしらがどれほど励まされて、生活の面倒を見てもらったことか」
「ほんとありがてえ。藤山様は俺達の恩人です」

藤山要吉という人物は金儲けの為だけの商人の片手間仕事だけで農場経営をしていたのではなく、幾度となく現地を訪れました。それだけでも、現地の農民に慕われていたのでしょう。
要吉は留萌の他にも厚真・美瑛・中頓別他8箇所に農場を開設し、昭和21(1946)年のGHQの農地解放令に伴って独立した小作人は千数百戸に達しました。

藤山地区の昔話
[母なる留萌川/広報るもい 留萌いまむかし 昭和62年2月号より]
当時、留萌川の両岸は、うっそうとした森林と熊笹が生い茂り道路などはない状態であった。
最初の入植者たちは、留萌川を船でさかのぼり、やっとのおもいで入植地に入ったという。
そして、これらの人たちの唯一の交通路として明治43年(1910)の鉄道開通まで利用されたという
古老の話によると、藤山から留萌まで下りは半日、上りは途中一泊の行程であったという。
また、開拓民の内職として、冬の間薪を作り、川岸に積んで目印を付けておく。それを春の雪融けの時に留萌川に流した。
山で一敷50銭の薪が留萌に流すと3円50銭で売れたという。当時沿岸では鰊漁がさかんであり、粕炊き用の薪が必需品であった。

[藤山の開拓/広報るもい 留萌いまむかし 昭和62年11月号より]
最初の入植者である笹島氏の記録から当時の様子をおってみよう。
「私は明治29年13歳の時兄に従って、富山の伏木港をあとに留萌にやってきました。 来道の動機の一つは、当時小樽の藤山要吉さんが入植者を募集しているとのことであった。 ことに兄の渡道という機会に恵まれた。
もう一つは、郷土富山では想像もつかない5町歩の土地が貰えるという魅力に惹かれて、一つ頑張ろうという気になったことです。
藤山農場の入植規定では、一か年間は米味噌や日常必要品それに家屋も支給されました。これは一応貸与ということになる。そして4年間完成までいて、開墾完了者にはこれを棒引きする。途中で帰る者はその分を返済しなければならない。
年貢についていうと、小作料を支払うのは5年目で、大体雑穀で2斗~3斗(30~45kg)でした。収穫は4斗俵で4~5俵(200~250kg)でした。  (中略)
交通としては、原野12線から23線の間には道が無く、物資を求めるために作物を出すために留萌に出なければ用が足せない。23線藤山より神社の下に船着場があって、ここから留萌川を下るわけです。下りは1日、上りは3日かかりました。」 (中略)
ただ、藤山農場に入植した人々は他の北海道内の入植者から見れば恵まれていたといえよう。


藤山駅17
あい:藤山駅が全部壊されなかったのには、藤山住民の想いがあったのかしらね。

開拓で培われた藤山魂 (財団法人あしたの日本を創る協会/まち・むら 82号より抜粋)

藤山町には、「藤山魂」という言葉がある。この地に開拓の鍬が入ったのは明治29年。すでに条件のいい土地の入植は終わっていた時期だった。藤山町の先人は条件の厳しい土地に足を踏み入れ、原野を切り開き、たび重なる留萌川の氾濫と闘い続けた。『ふるさと藤山の足跡』によれば、明治44年までに入植した
112戸のうち51戸が離脱するほど、開拓は困難を極めた。
 残った入植者たちは苦難に向き合い、力を合わせて鍬をふるい続け、市内でも有数の穀倉地帯へと変えた。それによって、どんなことにも一致協力する強固な団結心、自らつくりあげた大地への深い愛着、苦難を克服して開拓をなしとげた自信と誇りが生まれた。「藤山魂」はその歴史を継いだ人々の不屈の精神を表す言葉であり、藤山に住み続ける人、藤山を離れて各地各界で活躍する人びとの心に生き続けている。

藤山駅16
あい:この駅を訪れて、藤山要吉さんのことをもっと知りたくなったなあ。 
今でこそ「極端にご利用者の少ない駅」になってしまいましたが、そこにこんな歴史があったりするのです。
留萌本線も廃線協議中の路線ですし、この駅はあと何年現役であり続けることができるのか。。。



最後まで読んでいただきありがとうございます。
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No title

こんばんは、
藤山要吉さん物語、ほんの数十年前までこの駅近くの住民の方々がが協力しあい、枯れた土地を蘇らせるまでの期間中、汗をかき、励まし合い、涙を流し、最後には歓びあって藤山魂と呼ばれるまでになったのだと、記事を通して伝わってきました。
どんなに過疎になってしまった場所でも、駅があった事実を追ってみると、そこで暮らしてきた様々な人間模様や暮らしぶりが浮き出てくるんですね。
寂れた駅も冬音さんが紹介すると、まるで生き生きと今そこで藤山要吉さんや地域のお母さん達やお父さん達が大声で笑いあって、ご飯を食べて健康な子供達が駆け回ってるような、賑やかな駅に見えてくるからふしぎです。そして、少し切ないです…

Re: ユアン131さん

> こんばんは、
ユアン131さん、コメントありがとうございます。

> 藤山要吉さん物語、ほんの数十年前までこの駅近くの住民の方々がが協力しあい、枯れた土地を蘇らせるまでの期間中、汗をかき、励まし合い、涙を流し、最後には歓びあって藤山魂と呼ばれるまでになったのだと、記事を通して伝わってきました。
> どんなに過疎になってしまった場所でも、駅があった事実を追ってみると、そこで暮らしてきた様々な人間模様や暮らしぶりが浮き出てくるんですね。
鬱蒼とした原生林を切り開き、水田を作り、開拓してきた土地。 鉄道面での歴史と土地の由来や歴史、両方知るとより地域の暮らしぶりが見えてきます。
なにせ入植当時は道など無く、鉄道が出来るまでは留萌川を船でさかのぼっていかなければいけませんでした。


> 寂れた駅も冬音さんが紹介すると、まるで生き生きと今そこで藤山要吉さんや地域のお母さん達やお父さん達が大声で笑いあって、ご飯を食べて健康な子供達が駆け回ってるような、賑やかな駅に見えてくるからふしぎです。そして、少し切ないです…
留萌市立藤山小学校(平成15年、開校102年で閉校)があった頃は、きっと賑やかだったのでしょう。
地域の皆が小学校のPTA会員となり、地域を見守って来ました。
駅の利用者は、平成6年の資料で1日「2人」、平成12年で「4人」これもまた現実でしょう。
藤山については、もう少し追加で調べてみたいです。
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